男女共同参画とか、ダイバーシティとか叫ばれる世の中です。
ダイバーシティってお台場のことだっけ?
多様性っていう意味
とりあえず「差別だ」と言っておけばなんでも許されてしまう風潮には困ったものです。
「男の子って~だよね」とか「女の子って~だよね」と言うと、どこからともなく矢が飛んできそうです。
また、多様性を認めるべきと言っている人に限って、相手の意見は受け入れないという感じがします。
例えばAさんが「結婚は25歳~35歳の間にしかできない制度にすべき」と言ったら、Bさんから「年齢で差別するな」という批判がくるでしょう。
Bさんの批判ももっともですが、Aさんの考え方があったっていいはず。
でもBさんはAさんを認めないでしょう。
多様性や差別という言葉は、使い方が難しいのです。
本来、多様性は「人種や住んでいる場所で人を差別してはいけない。みんな違ってみんな良い」みたいな考え方なんじゃないかと思います。
だから、肌が黒い人も白い人も、髪の毛が黒い人も金髪の人も、皆平等に尊いのです。
その解釈を拡大して
バイト「俺は日本人だけど金髪にする」
店長「じゃ、君はクビね」
バイト「金髪を差別している!多様性を認める社会に反する!」
ということが起こったりするわけです。
なんでこんな話をしたかというと、今日、Lilyっ子たちを見て「男の子だなぁ」って感じたシーンがあり、それを書きたかったからです。
そのシーンとはお昼休みのこと。
午前中の授業が終わり、お昼休みは各自自由に過ごします。
J君とS君が一緒にファミリーマートにお弁当を買いに行ってました。
で、戻ってくるとLilyで食べているのはS君だけ。
J君は家に帰って食べるそうです。
「一緒に食べないんかいっ!」とツッコみたくなりましたが、男の子ってそういうもんだよなぁ、と。
こういう話をすると「”男の子だから”じゃなくて”その子達だから”でしょ?女の子だってそういう子いるでしょ」と、ジェンダーレス派の人からツッコミが来そうなので、前もって釘を刺しておきました。
それを言ってしまうと
「男って」「女って」「子どもって」「老人って」「日本人って」「外国人って」という、大まかに分けてその特徴を言うこともできなくなってしまい、結局何も言えなくなってしまいますからね。
田沼意次の政治のあとに、松平定信が規制の多い清らかな改革をしたときに
「白河の 清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋ひしき」という歌ができたのも、分かる気がします。
多様性を認めない人を認めない、というのは多様性社会の精神に反する!
多様性を認めない人を認めるのも多様性、となってほしいです。
私は多様性を認めないわけではありませんけれど。
多様性は大事
多様性という言葉がゲシュタルト崩壊してきたので、この辺で。