自分がやりたいことなら、やるなと言われてもやってしまうものです。
楽しいと感じることは、言われなくても進んでやります。
親が勉強しない我が子に向かって「勉強しなさい」という光景は日本中いたるところで見られるでしょう。
でも、ちょっと待ってください。
その行為。
子供を勉強嫌いにさせている要因かもしれません。
「勉強しなさい」と言うということは、「勉強は自ら進んでやるような楽しいものではない」と言っているようなものです。
大人がよく言う「仕事だから」も根本は同じようなものだと思います。
「仕事だから=お金がもらえるから」と「やりたくないことを我慢してやる」という考えになります。
仕事=お金=我慢。
この図式に浸かったままでは、仕事をやるモチベーションはお金だけです。
「お金が得られないのであれば、やらない」ということになるでしょう。
当たり前でしょ。お金貰えないのに仕事するわけじゃないじゃん
「誰も好き好んで仕事なんてしていない。我慢してやっているんだ。我慢しているからこそお金が得られるんだ。楽してお金を得ようなんてもってぬほか」とか言い出すのでしょう。
その通りじゃん
勉強も仕事も「やらなきゃいけないこと」でしょうか。
本当は「やりたいこと」ではないでしょうか。
仕事やらなくていいなら、やらない。やりたいことではない。
「勉強しなさい」と親は言う。
それはつまり「勉強は楽しいものではない」と言っているようなもの。
勉強は楽しくない=だから子供はやらない。
でもそれでは困るから「勉強しなさい」と言ってしまう。
楽しいのなら言われなくてもやるもんね
自分の頭の中に「勉強は楽しいものではない」という認識がはびこっていませんか?
何度も何度も「勉強しなさい」と言ってしまっては、それだけ「勉強は楽しいものではないんだよ」と植え付けてしまっているようなものです。
勉強しなさいと言う度に、子どもの心は勉強から離れていくという罠。
でも、しつけとして「挨拶をしなさい」「うがい手洗いしなさい」って言うのと同じじゃない?
しつけの一環として「勉強しなさい」と言う、と?
そうそう
親が子に「◯◯しなさい」という時は「したほうがいい、またはしないといけないけれど、なかなか定着しないもの」です。
人に会ったら挨拶をする。
返事をする。
靴をそろえる。
帰ってきたら手洗いうがいをする。
食べたあとは歯磨きをする。
これらは勉強のように「楽しくないからやらない」というのとはちょっと違います。
「靴をそろえさい」も、言われた子供は「靴をそろえるのは楽しくないことなんだ」と感じることにもなりますが、しつけの場合は「楽しいとか楽しくないとか言ってないで、絶対にやりなさい。絶対だぞ」という感じです。
しつけには、やる・やらないの選択はないってことね
対して、勉強のやるやらないの選択は最終的には子供が持っている感じ
「靴をそろえるのは楽しいと感じようが感じまいが、そんなの関係なくやるものだ」と言い聞かせているのです。
でも勉強にはそこまでの強制力はありません。
親は子に勉強するように仕向けますが、最後の最後は本人次第になります。
つまり、挨拶や靴ぞろえと違って、勉強は”自分で自然に出来るようになるまでしつける”類ではないのです。
しつけと違って、勉強は本人が楽しいと感じればやる、感じなければやらない。
やらないからといって、強要したらもっとやらなくなります。
例えば、自分が上司に「本を読め」と強制されたらどうでしょう?
それが自分が好きな小説だったり、自分が興味のある分野なら、すんなりと読めるでしょう。
でも、全く興味のない分野の本だったら?
読む気が起きないね
君はそもそも本が好きではないでしょ
漫画なら好きだぞ
上司から言われたから渋々読むのであって、それはもはや「仕事」の一環になっているでしょう。
そうなると「”仕事”と言われれば仕方なく読むけど、”仕事”じゃないのなら絶対に読まない」となりますよね。
こんなふうに、読書を強要されると読書離れに繋がります。
中には「上司に本を読むように言われて、実際に読んでみたらとても参考になり、その後読書が大好きになりました」なんていう人もいるかもしれません。
が、それは稀な例でしょう。
読書好きな人は、上司に言われるまでもなく、それまでの人生ですでに読書が好きになっていたはずです。
むしろ、上司に言われたら好きじゃなくなるかもね
その上司を好きか嫌いかにもよりそうだね
やれ、やれ、と強く言えば強く言うほど、相手は「やらない」と殻にこもっていきます。
勉強させたくて「勉強しなさい」と言ってしまう気持ちはわかりますが、それによって逆に勉強することを遠ざけてしまっているのです。
じゃ、どうすりゃいいのさ。
君は囲碁は好き?
別に好きではない。将棋なら好きだけど。
囲碁をやれと強制されたら、やってみる?
やらない
上司に強制されても?
そのときは、やってるフリだけして、本気ではやらない
やるうちに、楽しさがわかるかもよ?
そしたら、気が向いたらやる
どうやったら気が向くの?
誰かが楽しそうにやってたらかなぁ
それ!
どれ?
習い事でも趣味でも、始めの一歩は「楽しそう」です。
それも身近な人というか、自分が好きな人というか、自分にとって影響力のある人が楽しそうにやっている姿を見て、自分もやってみようとなるのです。
子供も同じ。
自分に最も影響力のある親が、楽しそうにやっていることは自分もやってみたくなるはず。
ということは、親である俺が子供の前で楽しく勉強しろと?
まあ、それが一番だろうね
勉強なんてしたくないんだけど。バスドラやってたい。
そんな態度だと、子供も同じこと言うだろうね
「お父さんを真似しちゃ駄目だぞ」って言う
父の威厳も説得力もなくなるね
家に持ち帰った仕事を「あー、やりたくない」と言っていたら、それを聞いた子供は「仕事って嫌なものなんだ」という認識が生まれるでしょう。
親がテレビを見て大笑いしている姿を見た子供は「テレビは楽しいものなんだ」と思うでしょう。
子供に直接言っている言葉ではなく、そういった態度に本音が表れ、そういった態度から子供は悟るのだと思います。
そしたら子供の前では弱音も吐けないし、テレビも見れないし、勉強しなくちゃいけないじゃん
極論を言えばそうなるね
自分は怠けたまま、子供は怠けずにしっかり者に育てられないものか
自分はテレビを見てるけど、子供には「テレビ見てないで勉強しなさい」って言う感じ?
そそ。でも大人はいいの。普段仕事で頑張ってるから。
じゃあ、遅刻してきて「俺はいい。お前は遅刻しちゃ駄目だ」と部下を怒る上司をどう思う?
ひどいやつだ
じゃ、自分を棚に上げて、子供にだけテレビを見るなという親は?
ひ、ひどいや、いやいや、親は親で頑張ってるから
上司も上司で頑張ってるかもよ?
うーーむ
親がエンジニアで、プログラミングを楽しそうにやっている姿を見れば、子供はエンジニアになりたいと思うかもしれません。
でも、「プログラミングなんてやりたくない。エンジニアなんてやめたい」といつも嘆いている親を見たら、子供の選択肢からエンジニアは消えるでしょう。
子供は、親の言葉よりも背中を見ていると思います。
行動ってことか
自由気ままに振る舞えたのはもはや遠い過去のこと。
親になり、常に子供に見られる以上、かっこいい背中を見せたいものです。
「勉強しなさい」という言葉を発するのではなく、自ずと勉強に向かう子になるように、親自信の行動も気を配って頑張りましょう。
すでに頑張ってるんだけどなー