なんだかんだ言って、一番大切なのは国語なんじゃないかと思う今日このごろです。
英語を理解するにも国語を使うし、数学も理科も国語ができないと駄目ですし。
社会なんて教科書を読めばわかると思いきや、その「読む」という国語力がないと読めません。
「豊臣秀吉は明を征服しようと…」と朝鮮出兵の理由が教科書に書いてあっても「明が王朝名だということ」とか「征服の意味」がわからないと理解できません。
教科書を読めばわかるのですが、その前に教科書が読めていなかったなんてことが意外にも結構あるのです。
一昔前に「教科書が読めない子どもたち」という本があり、話題になりましたね。
次の文を読みなさい。
Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称であるが、男性の名Alexanderの愛称でもある。
この文脈において、以下の文中の空欄に当てはまる最も適当なものを選択肢の中から1つ選びなさい。
Alexandraの愛称は( )である。
①Alex ②Alexander ③男性 ④女性
わかってしまう人には当たり前過ぎて「これのどこがわからないの?」となってしまいますが、わからない人も意外にいるのです。
ちなみに答えは①ですよ。
国語は、日本人なら誰もが使っているので、なんとなくで答えられてしまいます。
「しかし」の後に筆者の主張がくるというのも、そりゃそうでしょと多くの人は思うでしょう。
「お金は大事だ。しかし、それ以上に健康が大事である」
という文があったら、筆者が言いたいのは「健康が大事である」ということです。
逆にしてみましょう。
「健康は大事だ。しかし、それ以上にお金が大事である」
こうしてしまうと、筆者はお金が一番大事だと言っていることになります。
文を逆の意味でつなぐ「逆接のしかし」があったら、筆者の主張を見つけることは簡単です。
「しかし」の次に書いてあることを読めばいいのです。
ここまで意識しなくても、普通の社会生活の中で「しかし」とか「だけどね」と言われたら、その次の台詞が重要だということはなんとなくわかるでしょう。
でも、なんとなくではなく、確かな根拠として意識しないと、国語の問題は解けません。
日常では何気なく使っていても、それをきちんと言語化して自分の中に落とし込んでおかないといざというときに使える武器にはなりません。
もやもやしているものをはっきりさせるためにも、国語の授業は必要なのです。
ということで、今年の冬は国語に力を入れて勉強しています。
国語も勉強すると面白いものですよ。