子供らを被害者に 加害者にもせずに
この街で暮らすため まず何をすべきだろう?Mr.Children / タガタメ
ロシアがウクライナに侵攻し、ニュースの大半がその関連になりました。
いろんな映像も流れています。
戦争時には世界を味方につけようとして、印象操作のための映像が作られたり配信されたりするので、鵜呑みにするわけにはいきません。
でも、ロシアとウクライナのどちらの意図に沿った映像であれ、戦争について考えるきっかけになります。
ウクライナのゼレンスキー大統領が自国を防衛する意向がある市民は申し出るよう呼び掛け、希望者全員に武器を提供する方針を示したそうです。
この呼び掛けも賛否あります。
・民間人を巻き込むことで犠牲者が増える
・ロシアに、ウクライナの民間人を殺害する口実を与えてしまう
・民間人が武器を持ったところで、ロシアの軍隊にかなうわけがない
こういった否定的な意見もあれば
・市民が徹底的に戦う意志を見せればロシアもそう簡単に侵攻できない
・戦争を長期化させることで、ロシアを負かす方向に持っていける
といった意見もあります。
そして、別の記事で新婚初夜に国家防衛のためにライフルを手にとったウクライナのカップルについても書いてありました。
予定では2人は5月に結婚式を挙げるはずでしたが、自分たちの将来がどうなるか分からなくなったため前倒しを決め、その後武器を手にしたとそうです。
2人とも主に志願者で構成されるウクライナ軍の一部門「領土防衛軍」に登録しているとのこと。
他にも、戦地になった地域から妻と娘を逃し、自分は戦地に残って戦うことを決めた父親の、家族との別れシーンの映像。
この映像はウクライナ側のものとして出回っていますが、ロシア側のものとも言われていますし、そもそも今回の映像ではなく数年前のものだとも言われ、真偽はわかりません。
これらが冒頭でいった印象操作にあたる記事や映像かもしれません。
なので、そのまま「ロシアが悪い」と言った一方的な意見に偏るわけにもいきませんが、「戦争とは」と考えるきっかけになることは確かです。
戦争が起こっても、そこで暮らす人々はいるわけで、
そういった人たちはどんな生活をしているのだろうかと考えてしまいます。
ミサイルは飛んでくるものの、仕事はしないと生活が成り立たないでしょう。
スーパーは開いているのか、買い物はできるのか、子どもたちは学校に行けているのか。
「あっちの方で火事が起きたらしい」くらいのテンションで「あっちの方にミサイルが落ちたらしい」と言っているのか。
東京大空襲のように、あたり一面焼け野原というのであれば、日常はもうなくなり、仕事だスーパーで買物だと言っていられないのは想像できます。
でも最近の戦争のように、敵国の軍事施設といった一部だけをミサイル攻撃するような戦争での戦時下の一般市民の生活はどんなものなんでしょう。
軍事施設だけを狙うとはいえ誤射もあるだろうし、何より敵国のことを信じられないでしょうから、もう気が気でなく日常生活を送りたいなんてもってのほか、という状況かもしれません。
こんな話をしていたら、ある人が「もしかしたら震災時の生活に似ているのかもしれない」と言っていて、私はそれが一番近いのかもしれないと思いました。
余震に該当するのが爆撃で。
私が住んでいる地域は3日間か5日間くらい停電していて「いつこの状況が終わるのか」「このままだったらどうしよう」と考えていたのを覚えています。
そ停電が終わった後は仕事もして普通の生活になりましたが、それでも余震が気がかりで、いつもどこか警戒している感じがありました。
こんなふうに落ち着かない生活なのかもしれません。
震災の場合は自然が相手なので誰も責められませんが、戦争の場合は責める相手がいるので、心の持ち方もだいぶ違うのかもしれませんけれど。
結局、その状況になってみないとわかりません。
とはいえ、戦争下で暮らす状況なんて絶対に嫌ですけれどね。
私が最近のニュースで一番考えさせられたのは「武器を取れ」というウクライナの大統領の発言です。
同じことを言われたとき、自分はどうするのだろうと考えていました。
そのニュース記事のコメントには
「私が親なら迷わず武器を取る。家族がいる人なら誰だって家族を守るために皆そうするでしょう」
「いや、逆に家族がいる人なら、武器を取らず、一緒に逃げて生き延びようとするでしょ」
という両方の意見がありました。
どちらもすごくよくわかります。
コメントをしている人たちの想定する家族がどんなものかは書いてないし、家族の設定以前に、そもそもいろんな意見があって平行線になるのもわかります。
「家族」が「子供たちはもう成人している家族」であれば「武器を取る」選択をしやすく、
「家族」が「子供がまだ幼い家族」であれば「武器を取らない」選択をしやすい気はします。
でも、これは私がそう思うだけで、逆に「子供がまだ幼いからこそ、武器を取る」という人もいるでしょう。
私の家族は「子供がまだ幼い家族」ですので、武器を取って戦いに行くわけにもいきません。
自ら死ぬ可能性の高い場所へ行くことを、私は愛とは呼ばないからです。
それに武器を手にとったところで、それを使えるのかという疑問もあります。
例えばナイフを渡されて「相手を殺せ」と言われて、そのナイフで刺せるのか。
もし相手が襲いかかってきたら、防衛するために無我夢中で刺すことはできるでしょう。
でも、相手が何もしていない状況で、相手は敵だからという理由だけで、そのナイフで刺せるのか。
ナイフだったら無理でしょうね。
では、銃ならどうか。
私は引き金を引けない気がします。
相手にも家族が居て、そこにいる理由は「敵を殺したいから」ではなく、私と同じように「家族のために」と考えて、そこに立っているのかもしれません。
そう考えたとき、それでも銃を撃てるのか。
襲いかかってくれれば正当防衛ですが、そうじゃなければただの人殺しと考えてしまいます。
戦争ですから、そんなことは言ってられないでしょう。
でも、平和ボケした私は、そんなことを考えています。
戦争に限らず、人はいつか死にます。
今の日本では、病気や事故で命を失うことのほうが圧倒的に確率は高いでしょう。
私は、娘が生まれてから、手書きの日記も書くようにしました。
毎日書いているわけではないので、日記とは呼べませんね。
名付けるなら「遺書」となってしまうかもしれません。
法的に正しい書式で書いているわけではなく、内容は日記なので遺書と呼ぶのもふさわしくありませんね。
日記と遺書の間の、なんだかよくわからないノートをたまに開いて、心の赴くままに文章を深夜にこっそり書いています。
車を運転していて、カーブで大きなトラックとすれ違うとき、ふと「ここで事故になってしまったら」と考えます。
夜すれ違う車のドライバーに「頼むから居眠り運転するなよ」と念を送っています。
そんな行為もむなしく、私が事故で命を失ってしまったら、残された家族は途方に暮れるでしょう。
その時の家族へのメッセージとして、たまにペンを執っています。
「縁起でもない」と言われたら、そりゃそうだとしか言えませんが、本人は至って本気です。
だって、死ぬのは100%決まっているのですから。
病気なら覚悟ができますが、事故ならそれができません。
いつ起こるかわからない。
でも、確実に起こる。
だったら、元気なうちにメッセージを残しておこうかな、と。
ちなみに内容は全然大したものではありません。
「今日、小春はでんぐり返しができたね」
「日和は3歩くらい歩けるようになったね」
といった、成長の記録。
「小さな怪我はたくさんしてもいい。元気に育ってほしい」
といった、ごく普通の親が望むメッセージ。
「お母さんの言うことを聞きなさい。でもそれは中学生までで、高校生になったら自分でちゃんと考えて行動しなさい」
といった、いつか伝えるであろう私の考え。
そういったものが書かれたノート。
ウクライナの人も同じようなことをしているかもしれませんね。
でも、ミサイルが飛んできて、命も、そのノートすらも焼けてしまったら……。
悲劇や絶望という言葉ではとうてい表現できない感情になります。
その感情を形容する言葉はまだ地球上にはないでしょう。
ないままであってほしいと思います。
最後に、最近よくみるTeststeroneさんのツイート。
大事な話をします。人間は普段、自己防衛のため他者に共感する半径を無意識に小さく保っています。半径を広げすぎるとどうなるかというと、戦争の被害に遭っている人達に同情して食事がのどを通らなくなったり、自分だけ幸せに過ごすのは間違っているのではという気分になり日常生活が送れなくなります
ロシアとウクライナの件で精神的にキツい人も多いと思うけど、そのキツさの正体は衝撃的な出来事のせいであなたの半径が広がってしまったからです。共感してしまっているのです。人間は負の感情に強く影響される為、対策を講じないと多くの人の精神が不安定になってしまいます。そこで提案があります。
普段無意識に小さく保っている共感の半径を意識的に更に小さくしましょう。無関心になれという話ではありません。ただ、辛い時は他国のニュースや苦しんでる人にまで思考を巡らせるのはやめて、自分の人生に集中するのも有効な自己防衛です。辛い時はテレビ見ないスマホ触らない。心がざわつくだけです
戦争は他人事ではありませんし、他者の苦しみに思いを巡らせる事のできる人は素敵です。でも、そのせいで自分が精神的に疲れてダウンしてしまったら大変です。まずは自分の生活基盤と精神衛生を保つ事。そこから余裕のある人だけが共感の半径を少しづつ広げていけばいいと思います。生き抜いていこうな
良いこといいますね。
まずは自分を大切にし、他者を思いやれる余裕ができたら共感するようにする。
あ、ちなみに私は「他者のために共感している」というわけではありません。
ウクライナの人々の日常生活ってどんなのだろうと疑問に思っているだけで。
戦争も、自分の死を考えるきっかけの一つに過ぎず。
なので、戦争の被害に遭っている人達に同情して食事がのどを通らないなんてことは全くありません。
それが良いのか悪いのかはわかりませんが、いつもどおり元気です。
なので、共感するほど敏感ではないし、優しくもない……そんな人間です。
戦時下の人の生活を憂う優しい人と見えるかもしれませんが、それはあくまでそう見えるだけであって本質は違いますので、誤解させてしまったらすみません。
太平洋戦争を生き抜いた祖父や祖母は私に愛情をたっぷり注いでくれましたが、計り知れない奥深さがあるんだろうなと思いました。
でもまあ、戦時下であろうがなかろうが、親が子を思う愛情は変わりありませんね。
戦争があるから愛情がより深くなるというわけでもないでしょう。
それならやっぱり戦争はないほうがいいですね。
まあ、どんなときでも、戦争があって良かったなんて思いませんけどね。
戦争反対。
家族に最大限の愛情を。
これだけは私の確かな思想ということで。