自分の子どもなら、叩いて叱るのもしつけのうちかなぁという考えでした。
娘は2歳4ヶ月。
幸い、そんなしつけをすることもなく、すくすく育ってます。
もちろん、言葉が通じない場合(例えば小学5年生だけど、聞き分けがない場合)などは、だめなことはだめと教えるには、言葉では難しいでしょう。
言葉が通じないのですから。
そういうときは、叩くしかないんじゃないのかなぁと。
親であれば叩くことは許されるんじゃないかなぁと思ってました。
でも、駄目みたいですね。
私が小中学生の頃、友達の豪快なお父さんが学校の先生に「うちの子が悪さしたら、ぶん殴ってください」と言ってましたし、実際に先生も生徒に手をあげる時代でした。
先生が理不尽に手をあげるのであれば大問題ですが、叩かれた生徒も納得して叩かれるのであれば、それも教育なんじゃないかなと思ってました。
こんなふうに育ってきてしまったから、しつけで叩くことを容認してしまうんだそうです。
私が考えていた理屈は大人の理屈であり、間違っているとピシャリ。
親野先生がいうには、叩くのは絶対に駄目だそうです。
当然、たたかれることへの恐怖心が植え付けられます。子どもは、恐れを持って親の顔色を見るようになります。つまり、恐怖心と共に人間不信(他者不信)が植え付けられるのです。
同時に、子どもは、無意識の中で、親にこのように扱われる自分は大切な存在ではないと感じるようになります。もし自分が大切な存在なら、このように扱われるはずがないからです。こういう認識は抑えがたく出てきます。
これは自己否定そのものです。人間にとって、自分は大切な存在ではないと感じることはとてつもない痛みです。
このように、たたかれることで自己否定と他者不信が育ってしまうのです。
こうして、人間不信+自己否定になってしまうと。
私が学生時代に考えていた「叩かれる本人が納得しているのであれば良い」という考えも、親野先生は否定しています。
親が、「ずるいことをしたらたたくという約束だったね。だからたたくよ」と言ってたたいたとします。
それは、「理由があればたたいていい」と教えているのと同じなのです。
子どもは必ずその理屈を学びます。「自分も理由があればたたいていい」と考えるようになるのです(そして、人はみんな自分の理由は正当だと考えます)。
これでは、「どんな理由があってもたたいていはいけない」と教えることはできません。
それを教えるには、まず親がそうでなければなりません。
うう。
言い返せません。
ということで、次の新たな考えに共感するまでは、私は「しつけで叩くことは一切しない」方針で行こうと思います。
親野先生、ペンネームだとは思うのですが「親野智可等」っていうんですよね。
「おやのちから」って読むのだと思っていますが……。
そのネーミングセンスはどうなんだろうといつも思います(笑)